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書道玄海社ものがたり
2021.01.25

第一回 戦後の書道界と「玄海」発刊まで(1949年頃)

「書道玄海社ものがたり」では、70余年にのぼる玄海社の歴史を少しずつお伝えしていこうと思います。
記念すべき第一回は「戦後の書道界と「玄海」発刊まで(1949年頃)」です。

戦後の書道界

第2次大戦後の書道界、特に漢字書は、それまでの古典派に戦後の開放的な時代感覚を取り入れ、書く者の主観を表現した新古典派の流れが主流となっていました。

*「六朝風」:中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称。一般的な楷書体によく似るが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分が多い素朴・雄渾さが特徴。

書海社との出会いから、玄海社へ

玄海社の創設者である吉田栖堂先生は、「六朝風」を率いた日下部鳴鶴の流れを汲む松本芳翠の門下で、新古典派の中でも古典派に近い書海社の流れに属していました。

月刊競書誌「書海」は、大正10(1921)年に吉田苞竹、相澤春洋、松本芳翠らにより創刊され、戦後昭和21(1946)年に松本芳翠により復刊されています。

その流れを汲んで、昭和21年(1946年)に吉田栖堂により「彩雲書道会」が設立されました。その3年後の昭和24年(1949年)4月に月刊競書誌「玄海」が発刊されました。焼け野原となった東京・立石で、終戦からわずか4年の時でした。

その前年の昭和23(1948)年には、日本美術界の中核である「日展」に書が参加し、民間では毎日書道展がスタートしています。

また「彩雲書道会」から「玄海社」と名称が改められたのは、昭和32年(1957年)2月の「玄海」からでした。

吉田栖堂先生の面影

「玄海」が発刊された初期のころにつきましてはあまり残っている資料がなく、人から聞いた話しかありません。

そのひとつを紹介いたしますと、落語家の二代目・桂文治が立石の吉田栖堂先生宅を何回か訪れていたそうです。その師匠の話によれば、当時吉田先生は蕎麦屋を営みながら字を教えていたそう。

吉田先生が書かれている様子を見かけた方によると、筆にたっぷり墨を含ませてひょいとそのまま半切の紙にゆったりとすみやかに作品を書かれていったともお聞きしています。